ピーエスエス株式会社

ケヅメ所長交友録

〈カメトーーーーク〉
「高尾山ケヅメリクガメ招福亀甲園」所長がゲストを招いて「カメ愛」を語ります。
ケヅメ所長 【本名:丸山久雄】
1962年7月2日 東京都福生市生まれ
1981年3月 日本大学明誠高等学校卒業
1981年4月 日本電信電話公社入社
2000年 丸山ケヅメリクガメ生態研究所 設立
2010年 NTT東日本株式会社 退社
2018年 高尾山ケヅメリクガメ招福亀甲園 開園
【趣味】パワーリフティング、デカ盛り食べ歩き、ロト6予想
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3/24/2018

西村 修さん(プロレスラー・文京区議会議員)の巻〈後編〉

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第12回 西村 修さん(プロレスラー・文京区議会議員)

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 今回からオヤジこと元新日本プロレス取締役・永島勝司氏と電撃タッグを結成、オヤジ人脈との鼎談(ていだん)も不定期ながらスタートすることになった「ケヅメ所長対談」。記念すべき第1回目は現役プロレスラーでありながら東京・文京区議会議員を務める西村修が登場した。大のプロレスファンというケヅメ所長は現役レスラーを前に興奮度100%となった。

インドに行ったのは、死について考えたからです

Picture肉1キロ、牛乳4リットルで体が大きくなると本気で信じていました
永島(以下、永島) 今、修がやっているのは…。
 
西村修(以下、西村) 戦後GHQが日本人の学校給食を完全支配しました。養生穀物を日本に売りつけて、その先には長期計画の陰謀があるんです。小麦粉が体に悪いのがわかっていて、自分の力で立ち上がれないような国民にしてしまおうと。
 
永島 小麦って体に悪いの?
 
西村 よくないです。日本人のDNAは穀物を主体としてきた。明治以降、西洋文化を取り入れて戦後、物資不足から完全にアメリカに支配されます。脱脂粉乳とパン。
 
ケヅメ所長(以下、所長) なるほど。
 
西村 それで日本人の体質も変わり、考えられないような精神疾患、ガン、糖尿病になる。侍の時代はあんなに質素な食事でとんでもない体力があった。
 
永島 うんうん。
 
西村 GHQは食を変えて、医療業界はぼろ儲け。その針を逆戻しするために私は政治に向かったんです。自分自身が肉と牛乳ばかりで体を壊しましたから。肉1キロ、牛乳4リットルで体が大きくなると本気で信じていましたから。70数年前、GHQがやってきたことの針を戻すという思い、理想は日本人本来の食に戻したいのです。学校の給食を変えただけで、学力も体力もアレルギーも街の犯罪検挙率まで変わったというデータがあります。
 
永島 そんなデータがあるの?
 
西村 あります。長野県の教育長と一緒に講演をやっています。飲料業界、医薬品業界、食品、レストラン、コンビニも敵に回してしまうじゃないですか。報道では絶対に取り上げないですよね。話が進まないんですよ。
 
永島 なるほど。具体的にどんな?
 
西村 基本的に全自治体は子供達目線、楽しい、美味しい、残さないが3原則。親の立場はいいもの、豪華なものを出してもらいたい。そうしたら、成人病予備軍になってします。そこの栄養士さんが青魚とご飯をとにかく食べさせなさいと。発芽玄米を13%混ぜて、てんこ盛りの小魚。これはPTAから大ブーイングですよね。子供達は残すし。町長と教育長と校長と栄養士の4人は変えなかったんですよ。教職員からもクレームがあったんです。そのうち子供達もそれを食べるようになっていき、3ヶ月でアレルギーが激減、6ヶ月で大人しくなってきて、図書館の利用率が上がり、1年で犯罪検挙率は0。
 
所長 ほー。
 
西村 子どもが変わって、親が変わるのが近道だと思うんです。親の意識も知識も食に関しては1割くらいですからね。健全健康にするには学校給食の改善が一番の近道だと思っています。アメリカが最初に仕掛けたのが学校給食の完全支配だったんです。なかなかうまくいかないんですけれど、口調を口説いて1ヶ月に1度は和食推進の日を。
 
永島 決まったの?
 
西村 一昨年の11月の新嘗祭からスタートして、焼き鮭とお味噌汁とお漬物だけ。牛乳は無し。1学期に1回ではデータが出ないのですが。
 
所長 100→0に変える勢いがなければ事態は変わらないんですね。
 
西村 私が区長だったら永平寺と連携をとって、給食を精進料理にします。それが究極の私の理想。
 
永島 どう思われます? 所長?
 
所長 すごい理想ですねえ。
 
西村 だから絶対選挙で勝てないんです。
 
永島 ガンの話をしてくれよ。
 
西村 永島さんに窓際族に追いやられた話?
 
永島 簡略に。
 
西村 デビュー時はガリガリで81キロしかなくて太れない私がアメリカ遠征にも行かせてもらった。鳴かず飛ばずの私でも2回目はヨーロッパ遠征にも行かせてもらった。いろんなチャンスをいただきながらも思想も哲学も違いますから、細いし力もないしパワーファイターではないわけです。そんな中、考え方に共鳴できた藤波派に行きました。こちらが長州さんの右腕でしたから、一緒に監禁されたことがあります。長州さん、永島さん、越中さん。
 
永島 俺、いたかよ?
 
西村 真ん中に座ってました。「俺たちは無我で食ってんじゃねえぞ!」って。そうこうしているうちに、ストレスもあり、食生活もあり、病気になってしまって。
 
永島 どこが悪かったの?
 
西村 リンパの付け根から発症して、全部取りました。
 
所長 自覚症状はあったのですか?
 
西村 最初は熱が出ました。1ヶ月以上続く微熱。まさかガンとは思わなかったですね。最低限の摘出をして抗がん剤と放射線で経過観察です。そして、体質改善と治療のためインド、台湾、イタリアをまわって。どこに行っても良いとされるのは、その土地のもの、伝統のもの。一品健康法なんて言わないですね。帰国すると、温暖性気候で取れないような南方のものがあったり西洋のものがあったり、。それで元々の日本人の食に戻して、穀物をメーンにして。それで体調がぐんぐん良くなりました。
 
所長 食は大事ですね。
 
永島 インドの話は?
 
西村 インドに行ったのは、死について考えたからです。輪廻転生の文化。肉体が滅びても魂は死なない。普段、どのように命と向き合っているのか。自分自身の悟りを求めて。
 
永島 なかなかそういう体験をするレスラーっていないよね。彼の、いわゆる病気、俺が一番心配したのは肉体的な病気、精神的な病気、いわゆるプレッシャーですよ。それはあったんじゃないの?
 
西村 それも含めて、考え方に影響は出ましたよね。皆さんに心配にかけるのはわかっていますけれど、日本でじっとしていることが解決にはならないと思ったんです。
 
所長 なるほどね。
 
西村 生きるか死ぬかですよ。
 
永島 所長は脳梗塞をやったというから、わかるところはありますか?
 
所長 ある日、なんだか頭が痛いなあと思っていて、帰宅して寝てたらそのまま死んでたと思います。床屋に行って、「頭が痛いから寝ていて良い?」って寝ていたんですが、様子がおかしいということで、病院に連れて行ってもらったんです。そのうちうわ言を言い始めて、意識がなくなりました。病院では「手遅れです」と家族が集められました。3日間昏睡状態でしたが、そこでカメの夢を見て、戻ってこられたんです。断片的なことしか覚えていないです。それから生命の尊さに気がつきましたね。
 
永島 奇跡的な回復だね。
 
所長 人間というのは生かされているんだと思いました。感謝する気持ちが芽生えて、人と争うよりも人のためにできることを、カメ園をやって人に喜んでもらおうという奉仕の精神が生まれました。
 
永島 俺はレスリングにカムバックするときに、医者の承諾書を持って来いと言ったけれど。
 
西村 そればかりは…。「いつだったら良いですよ」とは誰も言えない。医者は書けないですよ。インドへ行って、沐浴したりヒンドゥーの寺院にお参りしたって悟りは開けません。いつになったら悟りが開けるのかわからない。開けるまでいようという旅だったんです。そのときにたまたま、英語が話せる老人に「前世、現世、来世をどのように信じているんですか」と聞いて見たんです。じいさんは「船と船頭さんの関係を考えなさい」と。船は荒波の中で寿命がくるわけです。そして、また新しいボートを買うわけです。これが人間と魂の関係なんだよ。今使っている船が体。それをずっと考えながら、果たして私はあと何千年生きなくてはいけないのかと思ったら疲れてきて。
 
永島 なんとなくわかる。
 
西村 今死んじゃうから、死に対しての恐怖がある。ずっと魂が死なないのなら、力まなくても良いのかなと。その境って信じるか信じないかなんですよ。信じて楽になるのなら信じてみようと。未だに死んだじいさんやばあさんはどこかに生きていると本気で思っています。

レスラーって負ければ負けるほど……燃えるんです。

Picture初めて聞く話も結構あるね
永島 なんでプロレスをやってんの?
 
西村 プロレスラーだからです。
 
所長 西村さんがプロレスをやるきっかけは? 好きだったんですか?
 
西村 事件がありまして。この事件がなかったら政治もやっていないくらいの出来事がありました。中学3年の時に後輩たちとプロレスごっこをしていたんです。デカいやつが何かの技をかけて、動けなくなったんです。生まれて初めて自分自身の体力の無さに気づいて、眠れなくなったんです。何をすれば良いか? 警察へ行って柔道や剣道をするか、ジムへ行って鍛えるか? ずっと考えていた。で、ひらめいたのがボディビルのダンベルとプロテインを買うこと。それから毎日鍛え始めて、その延長でベンチとバーベルを買って家でトレーニングです。だんだん薄い筋肉がつき始めて、高校生になって、近くのYMCAで社会人と一緒にやっていました。そこが猪木さんやマサ斉藤さんの東京プロレスの解説記者会見の道場だったんです。
 
永島 あーそうかー。
 
西村 高校2年生の時に改装工事で道場がなくなった。その時に山本小鉄さんが新日本プロレス学校を作ったんです。アントニオ猪木の道場で山本小鉄のコーチなんてファンにはたまらないですよね。1期生で入って、上野毛の道場にずっと通って。夏は後楽園球場のビールの売り子をやって少しでも体力をつけようと。
 
永島 そんなアルバイトをやってたの!
 
西村 時給も良かったんです。高校3年生の時に150人に中から4人受かりました。小原道由、天山が一緒でした。天山は3日で練習が厳しくて夜逃げ。デビューして長州さんの発案でリラックスした環境の中で体を鍛えて来いと、アメリカに行って、完全な肉食になりました。その5年後に病気をして。
 
所長 来る日も来る日もステーキを?
 
西村 毎日。病気をしたので、食育活動をする。
 
永島 こういう話は俺も初めて聞いたよ。
 
所長 ドラマですねえ。
 
永島 カメとの会話もそうだけれど、修のこういう話もジンジンくるね。
 
所長 悟りを開いたのもスゴイじゃないですか。
 
永島 プロレスやっている場合じゃないだろう。
 
西村 体を鍛えるためのモチベーションになっていますから。子供たちを招待したり。
 
所長 青少年の育成につながりますよね。
 
永島 所長に修を会わせたかったのは、修は尋常な生き方をしていないんですよ。上がったり下がったり紆余曲折のある生き方。所長のカメとの出会いと一致するんじゃないかと思って。
 
所長 悟りを開く話は刺さりましたからねえ。
 
永島 政治もまた運命なんですよ。鳩山由紀夫政権の時に国民新党が連立与党で社民党と三党が組んでいた時に亀井先生の広島後援会の幹部の方が武藤さんに「出たらどうだ」という話をしたいたんです。2010年、柔ちゃんが当選した時。武藤さんは膝も痛いし、政治に興味ないし、誰か他のやつを探してみるからという時に私が手を揚げたんですよ。赤坂高級フグやで面接。何がやりたいかを聞かれて、先ほどの学校給食の話をしました。民進党は全国比で公認すると固い握手をしました。それから人生変わりましたね。ボロボロで負けちゃったんですけれど。レスラーって負ければ負けるほど…。
 
所長 燃えてくるんですね。
 
永島 それが西村の生き方なんです。
 
西村 特にお金のこと、安定とか保障とか言われます。私は新日本を辞めてから貯金がプラスになったのが過去13年ないです。ただ、やりたいことは全部やらせてもらっています。〈了〉

Picture

Picture
西村 修 NISHIMURA OSAMU
 生年月日:1971年9月23日生
 出身地:東京都文京区
 身長:186cm 体重:105kg
 趣味:食育活動、町歩き、キッズトレーニング
 尊敬する人:亀井静香、ドリーファンクジュニア
 好きな食べ物:日本の伝統食
 スポーツ:トレーニング全般、スノーボード(歴30年)
 夢:全国学校給食の完全和食化と牛乳廃止からの国家の医療費の健全化


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